那珂川大橋と田中豊博士

なかがわおおはし と たなか ゆたか はかせ

 御前山地域野口中心地東部に位置する那珂川周辺の景色は、「関東の嵐山」とも呼ばれる景勝地です。江戸時代より樹木の伐採が禁じられてきた御前山(ごぜんやま)の豊かな緑の裾に清流 那珂川が流れ、四季折々に表情を変える美しい眺めは、昭和25年に茨城百景のひとつに選定されています。

 この景色のアクセントとなっている国道123号線に架かる那珂川大橋は昭和24年に完成したもので、大正14年に木製の橋が架けられるまで野口に橋はなく、渡し舟が利用されてきました。しかし、この木橋も昭和13年の洪水で流され、続いて架けられた仮橋も昭和16年、20年、23年と相次いだ洪水のたびに流されました。そのような中、地域の悲願として架けられた永久橋が、数々の名橋の設計者 田中豊が手掛けた那珂川大橋なのです。

 田中は明治21年に長野市に生まれ、東京帝国大学を卒業後、鉄道省の技術者として働いていました。大正12年に関東大震災が発生すると、内務省復興局技師として、甚大な被害を受けた東京の橋梁の再建に携わり、隅田川に架かる永代橋(えいだいばし)や清洲橋(きよすばし)等を当時の最先端技術を駆使して次々に設計し、震災復興に大きく貢献しました。また、新潟市のシンボルとして知られる、昭和4年完成の萬代橋(ばんだいばし)も田中の設計によるものです。

 田中豊の設計する橋は、芸術的な優雅さと実用的な強度を兼ね備えたアーチ構造が特徴で、東日本大震災などの大きな地震を乗り越えた耐震性も持っています。これらの橋のうち現存する永代橋や萬代橋は、近代橋梁建築技術の結晶として国重要文化財の指定を受けるなど、高い評価を得ています。

 第二次世界大戦後の復興時期に架けられた那珂川大橋は、茨城県を代表する名橋のひとつです。その事業規模も、総工費8,500万円(現在に換算すると30億円くらいか)、就労人数延べ75,000人、鋼材使用量 橋体830トン(橋面1㎡あたり5.4トン)・下部構造115トン、セメント使用量1,100トンと、当時としては桁外れだったようです。

 昼夜に及ぶ12ヶ月間の大工事によって完成した永久橋は、長さ282.4mの四連ランガー式構造で、赤色の近代的アーチ型が印象的でありながら周囲の自然ともよく調和し、竣工から半世紀以上が経過した現在でも圧倒的な存在感を誇っています。