大都市にある劇場型の芝居小屋に対し、地域の祭礼等の余興として行った歌舞伎や人形浄瑠璃を上演するために、地方の農村や漁村などに作られた舞台です。常陸大宮市域には、廃絶した2つを含め、7つもの組立式農村舞台が確認されています。
江戸時代、北関東の片田舎、水戸領の農村であった常陸大宮市域でも、宝暦元年(1751)には村々で芝居興行が行われていたことが、上大賀村(市内上大賀)の山横目(やまよこめ 他藩でいう大庄屋)河野瑠平治の「年号留」に書かれています。「芝居」には、歌舞伎だけでなく、人形芝居と呼ばれた人形浄瑠璃も含まれます。
市内に残る舞台はすべて組立式で、舞台背景や幕などの道具類と床板等を保持し、柱や束・屋根材となる木や竹等は、組立ての都度山から伐り出して使い、興行が終了すれば解体して材木等は売り払って、経費の一部に充当していました。
当地の舞台が作られたのは、江戸時代後期の文政年間(19世紀前半)頃から明治時代と見られます。そのうち、文政3年(1820)と最も古い年号を記した道具を持つ「西塩子の回り舞台」、それとほぼ同時代に作られたと見られる「下小瀬の歌舞伎舞台」「門井の舞台」は市の有形民俗文化財に指定されています。また「下檜沢の歌舞伎舞台」の舞台背景の一組は、美和総合支所に隣接する美和工芸ふれあいセンターに展示しています。市内に残る農村舞台の中で、舞台を復活し、現在も組み立てと地芝居の上演を行っているのは「西塩子の回り舞台」のみです。
舞台を持つ村には、人形芝居や歌舞伎の一座を持つところもあり、プロの一座を招聘する買い芝居を行うこともありました。
このHPには、解説書『西塩子の回り舞台』の英訳を掲載しています。日本語版の解説は、リンクしている西塩子の回り舞台保存会公式HPでご覧下さい。