瑪瑙(火打ち石)

めのう(ひうちいし)

瑪瑙と玉髄(ぎょくずい)

 常陸大宮市では瑪瑙と玉髄が産出します。瑪瑙と玉髄は石英の細かい結晶が集まってできた鉱物で、縞模様の発達しているものが瑪瑙です。石英の成分を含む熱水が、地層の割れ目(断層)などに沿って上昇し、結晶することで形成されました。常陸大宮地域では昔から玉髄も瑪瑙も「火打ち石」と呼んでいたようです。

【瑪瑙】

 諸沢から北富田地域と玉川流域は、昔から瑪瑙の産地として全国的に有名です。諸沢と北富田の瑪瑙は、男体山火山角礫岩中の断層などに沿って脈として見られ、多くは透明から白色です。一方、玉川流域の瑪瑙は礫で発見され、多くが赤色からオレンジ色を示します。玉川流域で採取される瑪瑙の大きな脈は確認されていませんが、小貝野地域に分布する小貝野層中の瑪瑙脈が崩れ、玉川が運んだものと推測されます。

【玉髄】

 諸沢から地割地域の男体山火山角礫岩中で瑪瑙とともに見られます。玉髄の表面は葡萄状や珊瑚状等様々な形となります。

【瑪瑙の歴史的意義】

 常陸大宮地域の瑪瑙と人のかかわりの歴史は、縄文人が石鏃などの石器として利用したことに始まります。8世紀に書かれた「常陸風土記」(※1)には瑪瑙の記述があり、玉川で採れる赤色の瑪瑙は「玉川石」と呼ばれていました。また、江戸時代にまとめられた「水府志料」や「新編常陸国誌」には、瑪瑙は”王父石”あるいは”火打石”と表記されています。さらに、東京都内で発掘された江戸時代の遺跡から出土する火打ち石のほとんどが、諸沢を中心とする地域で採掘された瑪瑙と見られています(東京都江戸東京博物館調査報告,2002)。

【瑪瑙産業の記録】

 「諸沢の瑪瑙(火打ち石)産業は「水戸火打ち」と呼ばれた江戸時代に始まり、マッチの普及後も、農閑期の仕事として昭和50年代まで採掘が行われていた。」と諸沢の「火打ち石」を調査・報告した2002年の東京都江戸東京博物館調査報告にあります。諸沢と北富田で、瑪瑙の採掘に従事していた方々は少なくありません。最終期には、火打金(ひうちがね)製造業者の吉井本家が諸沢まで仕入れに訪れていたそうです。

 また、『山方町誌』(1982)には、「戦後、渡辺俊三氏(東京)による採掘と、神奉地(しんぽうち)での練玉、ネクタイピンやカフスボタン等の装飾品の加工事業があった。その事業は後に伊藤某氏(東京)、さらに1960年には白髭文蔵氏(神奈川)にへと引き継がれ終焉をみた。」と記述されています。

 

コラム「徳川斉昭のガラス製造」

 幕末の水戸藩主徳川斉昭は、望遠鏡の借用申請時の幕府の対応に憤慨し、天保11年(1840)に藩独自の硝子工場を神崎(水戸市内)に造り、諸沢の瑪瑙を原料として、鏡や徳利、盃、ギヤマン牛乳瓶などの製造を行いました。(秋山高志,1978;徳川博物館,1998)

 

(菊池芳文 2013 常陸大宮市歴史民俗資料館企画展「常陸大宮の地下資源~地域をささえた宝物~」展示解説より引用)

 

※1 「常陸国風土記」と常陸大宮市 パンフレット
「常陸国風土記」に記載のある常陸大宮市域関連記事をピックアップして解説。風土記編纂の詔が出されてから1300年を記念して発行。
常陸国風土記と常陸大宮市パンフ.pdf
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