雪村

せっそん

 雪村周継(せっそん しゅうけい)は、雪舟(せっしゅう)と並び称せられる室町時代の画僧です。

 雪村は、15世紀末頃に常州(常陸国)部垂(へたれ)、今の常陸大宮市大宮地域に生まれたと考えられています。江戸時代前期に京で活躍した画家 狩野永納(かのう えいのう)が書いた画家伝『本朝画史(ほんちょうがし)』には、雪村は佐竹氏の一族として部垂の村田郷に生まれたが父が側室の子を愛し廃嫡されたため僧になったこと、生まれつき絵を好んだことなどが記されています。

 近年の研究では、雪村は増井(ましい 常陸太田市)にある臨済宗の名刹 正宗寺(しょうじゅうじ)で禅僧としての修行をしながら画も学び、その後会津に赴き、さらに小田原・鎌倉を遍歴して再び奥州に戻り、最晩年は三春の雪村庵(福島県郡山市)に隠棲して、90近い高齢で没したとされます。この間、会津の蘆名(あしな)氏、小田原の北条氏、三春の田村氏などの戦国大名、小田原 早雲寺の以天宗清(いてん そうせい)や鎌倉 円覚寺の景初周随(けいしょ しゅうずい)らの禅僧と交わり、文人僧の策彦周良(さくげん しゅうりょう)とも関係があったことがわかっています。

 雪村は西国を訪れることなく、関東以北の臨済宗寺院や交流のあった戦国大名の家に所蔵された画の名品を見て多くを学び、誰の真似でもない独自の画風を身につけたと考えられています。雪村の画は洗練されていながら遊び心にあふれ、見る者を魅了します。尾形光琳(おがた こうりん)をはじめとする琳派の画家たち、そして岡倉天心が率いた明治の画家たちも、雪村作品から多大な影響を受けています。

 雪村が生まれたとされる大宮地域にあった部垂城の城主は、佐竹宗家 義篤(よしあつ)の実弟 部垂義元(へたれ よしもと 宇留野義元とも)で、村田郷にも程近い宇留野(うるの)城の城主も兼ねていました。この義元が雪村の庇護者であったとも考えられていますが、天文9年(1540)、以前より軋轢のあった兄 義篤に攻められて自刃します(部垂の乱)。その後10数年を経て、50代半ばに達した雪村は常陸を離れます。

 市内下村田には市の史跡「雪村筆洗いの池」があり、幕末の水戸藩士 加藤寛斎が遺した『常陸国北郡里程間数之記』には、人々が雪村の住居跡を今でも雪村屋敷と呼んでいること、雪村は近くに湧き出す泉水(現在の筆洗いの池)をもっぱら画用に用いたので、雪村面影の井あるいは硯の井と呼んでいる、と記しています。

 なお、江戸時代末期に市内美和地域鷲子(とりのこ)の民家で発見されたとして谷文晁(たに ぶんちょう)らによって紹介された、雪村が天文11年(1542)に弟子のために部垂在住時代に著したとされる画論「説門弟資云(もんていのしすにといていう)」は、文晁ら熱烈な雪村ファンによる偽書と考えられています。

(参考/小川知二『もっと知りたい 雪村 生涯と作品』東京美術 2007)