連山交易禅師は、江戸時代前期、曹洞宗の教学の建て直しに尽力した、御前山地域上伊勢畑出身の禅僧です。
連山禅師は、寛永12年(1635)8月15日、岸四郎右衛門の子として上伊勢畑村沼ノ上の地で生まれたといわれています。幼少の頃から仏教への向学心を見せていた連山は、13才で浅草に養子に出されましたが信仰心を捨てず、3年で故郷に帰り、長倉の蒼泉寺(そうせんじ)で出家を果たしました。ここで水戸藩の郡奉行を務めていた矢野九郎右衛門長重にその才能を見出され、援助を受けることになります。
20才で京都に遊学し、曹洞宗中興の祖といわれた名僧 万安(ばんあん)和尚を訪ねて、宇治の興聖寺(こうしょうじ)に入りました。万安和尚は、曹洞宗の教義や規律が乱れていることを嘆き、興聖寺を根拠に教学の建て直しを図りながら布教活動を行なっていました。高い理想と厳しい理念の下に曹洞宗を再興しようとしていた万安は、連山に出会って宗派の将来に光を見出したといいます。
連山も万安から多くのことを学び、2年後に帰郷すると禅の経典の講義や注釈書の執筆を精力的にこなして、竜谷院(りゅうこくいん 城里町)、蒼竜寺(そうりゅうじ 水戸市)を経て大雄院(だいおういん 日立市)住職となり20年の日々を修行と教学の探求に明け暮れました。続いて名刹 大中寺(だいちゅうじ 栃木市)に入って曹洞宗の僧録司(そうろくす 全国の曹洞宗寺院の寺務を総括する役職)となり、永平寺、総持寺の本山に次ぐ位の寺院を任されることとなりますが、連山は高い役職や栄誉を嫌って僧録司就任を悔やみつつ2年を過ごすと大中寺を去り、水戸2代藩主 光圀の招きに応じて天徳寺(てんとくじ 常陸太田市)の住職を務めました。光圀との親交を深めつつ著述活動を展開し、60才で亡くなりました。
連山禅師の墓は上伊勢畑沼ノ上の岸氏の墓所内にあります。また、禅師の生誕300年に当たった昭和11年には、生誕地と伝えられる場所に地元青年会によって記念碑が建てられ、禅師が生まれたという旧暦8月15日には記念碑から禅師の墓所までいくつもの灯篭を立てて火を灯す「お灯篭つけ」が行なわれて賑わったそうですが、現在は行なわれていません。
(広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き29」平成19年9月より)