海後 磋磯之介

かいご さきのすけ

 海後磋磯之介は、幕府大老 井伊直弼(いい なおすけ)が暗殺された桜田門外の変(万延元年 1860)の参加者18名の中で、生き延びた2人のうちの1人です。大老襲撃後の逃亡生活中、美和地域小田野の吉田八幡神社に身を潜めていた時期があります。

 海後磋磯之介は、文政11年(1828)、本米崎村(もとこめざきむら 那珂市)にある三嶋神社の神官、海後家の4男として生まれました。水戸に出て剣術や砲術を学び、後に桜田門外の変に参加する、水戸藩の郡奉行だった高橋多一郎、静神社神官の斉藤監物(けんもつ)などと親交を持ち影響を受けたことで、行動を共にすることとなります。

 桜田門外の変での大老殺害により、実行犯18名のほとんどは、斬り合いによって絶命したり、自害したり、獄死や死罪になるなどして悲壮な最期を遂げましたが、増子金八と磋磯之介の2名だけが明治まで生き延びました。2人の逃亡生活は困難を極めたと思われますが、その一端を知ることができる史料があります。

 磋磯之介の実兄 粂之介(くめのすけ)が、市内小田野にある吉田八幡神社の神官 高野家の養子となって神職を継いでいたため、磋磯之介は兄を頼ってひそかに神社境内に潜伏します。この当時のことを、粂之介の長女が思い出して書いた覚書がそれです。

 覚書によると、3月3日の大老襲撃後数週間を経た3月末頃、吉田八幡神社に現れた磋磯之介は、当初屋敷内の「神座」という人の出入りしない部屋にかくまわれていましたが、その後は発覚をおそれて裏山に潜んだといいます。しかし、高野家の米の買い入れ量が増えたことを出入りの米屋に怪しまれたり、捕り手の踏み込みを隣人からの情報で察知して辛くもやり過ごすなどの苦難もありました。裏山に潜伏する磋磯之介のために、粂之介自らが食料や酒を持って山に入り、大声で詩吟や歌を詠み歩いて精神が錯乱したと周囲に見せかけて、山中の磋磯之介を探し回ったとも書かれています。磋磯之介が小田野を離れるときは、粂之介の妻が真綿の入った胴着を新調して職人の姿をさせ、無事を祈りつつ見送ったとのことです。

 小田野を離れた磋磯之介は、会津や越後に潜伏していたといわれています。文久3年(1863)に罪を赦されると、那珂湊の戦いに参加するなど藩内抗争に身を投じました。維新後は、警視庁や県庁に勤務し、76才で病没しました。

 のちに、歴史小説の大家 吉川英治が、波乱に満ちた磋磯之介の生涯に取材して『旗岡巡査』という小説を書いています。

 小田野の高野家の庭には、「海後磋磯之介潜居趾」の碑が建てられています。

(広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き 44」平成20年12月より)

海後磋磯之介潜居趾碑文
石碑に刻された銘文です。
海後磋磯之介碑文.doc
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