了誉聖冏

りょうよしょうげい

 南北朝時代の暦応4年(1341 =興国2)、大宮地域上岩瀬に生まれ、室町時代前期にかけて活躍した、浄土宗中興の名僧。西蓮社了誉と号しました。

 了誉上人は、上岩瀬に住した白石志摩守宗義の子として、現在は浄土宗誕生寺が建つ地にあった館に生まれました。当時、南北朝の対立が激しく、南朝の拠点であった瓜連城(うりづらじょう)に近い岩瀬の地を領した宗義は南朝方についていました。

 5歳の時に北朝方の佐竹氏に攻められて館が落ち、父 宗義は敵の流れ矢を受けて戦死したため、幼い上人は母の遠縁にあたる鴻巣(那珂市)の宝憧院に身を寄せました。8歳のときに瓜連(那珂市瓜連)常福寺の了実上人について出家し、名を聖冏と改めて学問に励みます。

 常陸太田の蓮勝について浄土教を学び、さらに相模国桑原(小田原市)の定慧に師事するなどして、浄土教にのみならず、広く仏教の奥義を究めました。当時、浄土宗は独立した一宗と認められておらず、それを嘆いた上人は、天台を真源に、真言を宥尊に、倶舎・唯識を明哲に、禅を月庵宗光と月察天命に、神道を治部大輔某に、和歌を頓阿に学ぶなどして、これらの学問を基礎とした新しい浄土宗学の樹立に努力しました。『選択伝決疑鈔』など、上人の著書は膨大です。これによって浄土宗の地位は向上したといわれています。

 46歳のときに瓜連 常福寺第2世として了実上人の跡目を継いでいましたが、応永22年(1415)弟子の求めに応じ、常福寺を弟子 了智に譲って江戸小石川に移り、著述と弟子の養成に明け暮れましたが、同27年(1420)9月27日の早暁、80歳で没しました。のちに称光天皇から、聖冏禅師の称号が贈られています。墓所は小石川の伝通院です。

 地元には、額にあった三日月形から光を発して読書をしていた、下岩瀬の鏡が池に現れる娘の亡霊を調伏したなど、上人についてのて伝説が多く残っています。また、誕生寺境内には、上人の産湯に用いる水を汲んだと伝える智水の井戸があります。

 上人の祥月命日に当たる旧暦9月27日の前夜には、瓜連常福寺で盛大に法要が営まれ、常福寺の二十六夜尊、また、六夜尊(ろくやさん とも)と呼ばれて、現在でも近隣の人々が大勢お参りする行事となっています。

(参考/『大宮町史』昭和52、『日本仏教史辞典』吉川弘文館1999)