江戸時代中期に山方地域諸沢に生まれた中島藤衛門(藤右衛門とも表記)は、流通に不向きだったコンニャク芋を粉にすることを思いつき、普及させた人物です。
藤衛門は延享2年(1745)、諸沢村地割(もろさざわむら じわれ)に生まれました。諸沢の地は山々の続く山方北部地域でもとりわけ切り立った岩山が急峻で、交通の便が悪く、平坦な耕地はわずかで、小石交じりの斜面を利用して作付けできる楮(こうぞ 和紙の原料)やコンニャクを作る以外に生活の糧を得る方法はありませんでした。
コンニャクは、水はけの良い砂礫地を好むため、県北山間地域の環境に適合していましたが、寒気に弱いため秋に掘り起こして冬季は屋内保存の必要がある上、植え付けから3年後にしか収穫できないなど手間と時間が掛かります。また、収穫した生芋は重く傷みやすいために出荷が困難で、商品作物としては効率の悪いものでした。
こんなコンニャクの難点を克服できないかと、藤衛門は15才から研究を重ねた末、ふとしたことからコンニャク玉を乾燥させると長持ちすることを発見します。試行錯誤の結果、生玉を厚さ1cmほどの薄切りにし串に刺して乾燥させたもの(これを荒粉 あらこ といいます)を、水車を使って臼で搗(つ)き粉末にするという製法を確立しました。この粉末は「粉蒟蒻(こなこんにゃく)」と呼ばれ、藤衛門みずから粉蒟蒻と石灰を携えて国内各地を巡り、コンニャクの合わせ方を教授しながら売り広めました。
これにより、遠路の輸送にも耐えられる品質の確保と軽量化に成功し、販路を北は松前から南は畿内にまで拡張、水戸領を代表する産物のひとつに成長しました。水戸藩は粗悪品を排除するために袋田に蒟蒻会所を設置して藤衛門を頭取に任じ監督させ、品質の維持を図りました。また、諸沢は火打石となる瑪瑙の産地でもあり、藤衛門は火打石山会所守にも任じられています。ほかに茶の栽培方法の見直しも図って本場の京都宇治から職人を呼び寄せるなど、地域振興に強いリーダーシップを発揮した人物であったことがわかります。
文化3年(1806)にはその功績により苗字麻裃着用を許され、文政8年(1825)4月8日、藤衛門は81才で生涯を終えました。
藤衛門が粉蒟蒻を発明し販路を拡大したことは、耕地に乏しい寒村に富をもたらしました。中島藤衛門はコンニャクの神様として祀られるようになり、大子町を中心としたコンニャク産地では、藤衛門の肖像や芽吹いたコンニャクの絵を描いた掛け軸を床の間に掛け、藤衛門の功績をたたえるとともに収穫を感謝する「藤衛門講」が行なわれてきました。大子町中心部の十二所神社や上野宮の近津神社境内には、中島藤衛門を祭神とする蒟蒻神社があります。
(広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き30」平成19年10月より)