オーヴィル・ディーン・ビクスラーは、キリスト教の伝道のため、大正11年(1922)山方地域長沢に夫婦で移住したアメリカ人宣教師です。
ビクスラーは生国アメリカで神学を修め、大学時代に師から聞いた日本伝道の話に触発されて来日し、伝道の遅れている茨城県北部にやってきました。一緒に来た宣教師たちも、太田、大宮、棚倉、大子などを拠点として布教活動を展開します。
長沢での彼の活動をにおいて重要な役割を果たしたのが、同地出身の平塚勇之助です。平塚は明治末期からこの地域にキリスト教を広め、その基礎を築いていました。ビクスラーは地元の信者とともに布教活動をはじめ、長沢を拠点に塩田、山方、小瀬へと伝道し、のちには隣県の烏山、茂木にも教会を作ったようです。現在はほとんど残っていませんが、大正から昭和初め、現在の常陸大宮市域には、長沢のほかにいくつものキリスト教会があり、多くの外国人宣教師が活躍していた時期があったようです。
当時、田舎では外国人が珍しかったのでしょう、宣教師見物を目的に来るものが連日あり、中には弁当持参の人もいたそうです。ビクスラーも、長沢での生活の中で地元の人々と親しく交流し、日曜礼拝などにも信者が集まるようになったといいます。
また彼は、栄養状態の当地の食生活の問題に心を砕き、教会の隣に「ヘルス・フーズ・インダストリー」という自然食品の会社を興し、昭和5年から創業を始めました。この会社は彼の死去する昭和43年まで存続したそうです。原料となる牛乳を得るため、太田に牧場とミルク処理場を開くなど、県北部の各地に彼の思想に基づく施設がありました。
そのような熱心な慈善活動にも関わらず、戦時中はスパイ容疑をかけられ、一時帰国を余儀なくされました。さらに、アメリカでの活動中には、本国から日本のスパイ容疑をかけられるなど、彼の戦中は苦難の連続だったようです。戦後はマッカーサーの招きによって早くも昭和21年に再来日し、キリスト教宣教師代表20名のうちの1人として、日本の復興に尽力しました。その後、日米間を4度にわたって往復し、再び長沢の地に戻っています。
ビクスラーは他にも数々の活動を展開しています。そのひとつが、戦災孤児を養育するため昭和22年に鈴木通夫氏が額田(那珂市)に開設した「チルドレンズホーム」への積極的な協力です。長沢の教会兼住宅も、彼が米国に帰る際にチルドレンズホームに寄附され、「ビクスラー記念館」として移築されました。現在も一部が保存され、使用されています。
また、日立市のキリスト教学園、東京御茶ノ水のキリストの教会などを設立し、那珂市の福祉施設の運営にも携わりました。大正期から50年にわたる日本への功績に対し、死去の同年には勲四等旭日章が贈られました。
(広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き 20」平成18年12月より)