高部宿の町並み

たかぶじゅくのまちなみ

 高部宿は、美和地域高部地区の中心部で、趣ある町並みが残る宿場町です。現在の美和総合支所の北東には、佐竹7代義胤の5男 高部景義(たかぶ かげよし)が築いたといわれる高部城があり、中世以来、軍事や宗教の拠点として栄えてきました。この地は、常陸・下野の国境で、那須氏らからの守りを担う防御線となっていました。

 江戸時代には特産の和紙や葉煙草を扱う有力商人が軒を連ねていました。この中の、岡山仙太郎、大森又左衛門、國松権兵衛、堀江喜三郎の4家は、経済的にも政治的にも水戸藩と強いつながりを持って郷士となった富裕商人で、酒造業を営む家もありました。

 幕末に作られた「高部村天保検地絵図」には、高部宿の地割りが描かれており、現在の町並みが150年前とほとんど変わっていないことがわかります。

 美和地域を檜沢方面から西に進んで高部宿に入ると、和田川にかかる下町橋を渡ります。すぐ左手が「花の友」の岡山酒造、その西隣が「國光」の國松酒造です。江戸から明治にかけて建てられた古い建物の多いこの通りの中でも両家の佇まいは一際目を惹きます。ともに現在は廃業してしまいましたが、重厚な酒蔵や住居は当時のまま残されています。

 高部宿は、北と南におだやかな山並みが連なり緒川と和田川が交わる地点で、水に恵まれており酒造りに適していたことでしょう。岡山家の木造の三階櫓(さんがいやぐら)「喜雨亭」(きうてい)は、明治20年(1887)に建てられ、社交場として使用され、親しまれていました。最上層に「花の友」という銘柄が記された美しい姿は、この通りのシンボルとなっています。商標「花の友」の”花”とは梅花、三階櫓は偕楽園の好文亭を模したものといい、庭園には梅の古木が多く見られます。

 國松家も明治初期から酒造業を営んでいました。近世には紙問屋、村役人を務めた名家で、藩主の巡村の際の休憩所になった記録も残ります。通りに面して建つ若草色の近代建築は、明治時代に建てられたかつての郵便局舎です。

 この2軒と街道を挟んで向かい合う大森家も江戸時代後期創建の母屋と門を持ち、やはり村役人を務めた家です。母屋はおよそ200年前の江戸時代後期に高部宿が大火に見舞われたときに建て替えられたもので、天狗諸生の乱での刀傷が残されています。

 その隣の平塚家も明治の近代住宅建築を残す旧家。また、T字路を北に向かってすぐにある洋館 間宮家住宅は国の登録文化財であり、街道沿いの小さな区域に古建築の密集する様は、一見の価値があります。

(広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き 28」平成19年8月より)