大宮地域下町に鎮座する甲神社(かぶとじんじゃ)境内にある摂社 素鵞(そが)神社の祇園祭。昔より、勇壮な裸神輿として有名で、かつては旧暦6月13日夜の出社から16日深夜のお宮入りまで4日間行なわれていましたが、道路事情によって一時中断を余儀なくされ、現在は、子どもたちが夏休みに入ってすぐの7月下旬の金・土に、祭式を簡略にして行なわれています。
社伝によると、素鵞神社はもと大宮地域姥賀(うばが)の天王原(てんのっぱら)にあり、征夷大将軍 坂上田村麻呂が東北に遠征する途上、子供たちが何やら神像らしきものを担いで騒いでいるのを目撃して、この神像を「霊験あらたかなもの」としてこの地に祀ったのが始まりといいます。田村麻呂は凱旋の折にもここに立ち寄ったと伝えられ、その時戦勝のお礼として奉納したのが、現在社宝になっている剣(市指定文化財)とのことです。大宮の素鵞神社創建の由来には、しばしば八坂系神社勧請のきっかけとなる、地域での疫病発生などの伝承はありません。
姥賀にあった素鵞神社は、もともと姥賀・高渡(たかわだ)・東富(ひがしとみ)の鎮守でしたが、元禄年間の水戸藩による一村一社制によって甲神社の摂社として現在地に遷されたといいます。一説によると天王原から一時上町に遷座し、その後甲神社の境内に鎮まったとも言われています。
大宮の祇園は、大宮市街地の6つの町内(表町 おもてちょう)が3町ずつ北組と南組に分かれており、交代に神輿の当番町と屋台の当番町を受け持ちます。それぞれの表町には裏町(うらちょう)と呼ばれる郊外の集落が付いていて、表町を補佐する形で祭礼に加わります。
かつては、
旧6/13 夜出社 神輿当番町に設営した仮殿へ奉安
14 夜 風流物(当番町の屋台での常磐津)演曲始め(演目「子宝三番叟」)
15 朝神輿仮殿出御 通りに面した家々の入口をジグザグに神輿を運行する
町渡り(ちょうわたり)を行なう
16 町渡りの続き 天王原と仮殿前での祈祷 夜入社(風流物 演目「関の扉」)
昭和30年頃の祭礼では、風流物の屋台は、屋台当番の町内が属する組の3台が神輿に付き従って曳かれ、一台は野口の神楽、一台は笠間の芸者衆の踊り屋台、もう一台は大宮の芸者衆の踊り屋台だったそうです。屋台は神輿に従って運行されますが、表町から外へは出なかったといいます。町渡り時に各町庭(ちょうにわ)で披露された演目は、いずれも常磐津で「将門」「狐忠信」「戻り橋」「梅川」などでした。
神輿渡御(とぎょ)の見所は、神輿を前に進めようとする神輿当番町が属する組と、それを阻止しようとする風流物当番町が属する組がぶつかり合い、神輿が激しく揉まれる、お宮出しとお宮入りの攻防戦です。かつては、祭礼の終わりを惜しむ気持ちも手伝ってお宮入りが夜明けになることもしばしばだったといいます。
祇園祭中断の後、昭和53年に子供神輿を復活、翌年は大人の神輿も出御を果たしました。しかし、祭式は大幅に簡略化して、現在は、祭礼初日は2基の子供神輿の渡御、2日目に大人神輿の渡御が行なわれるのみで、仮殿の設営や町渡り、天王原への渡御は省略されています。しかし、現在もふんどしでの参加をかたくなに守り、裸の男たちが激しく神輿を揉む祇園は、大宮の旧市街が最も賑わう祭りです。
(参考/大宮町歴史民俗資料館『大宮町の年中行事』平成12年)
※映像もご覧いただけます。(財)地域創造 地域文化資産ポータル 記録映像「大宮の祇園」