時雍館(野口郷校)

じようかん(のぐちごうこう)

 御前山地域の旧野口小学校の地に、水戸藩の郷校のひとつ時雍館がありました。「郷校」とは、藩が設けた庶民のための学問所で、水戸藩では、文化元年(1804)、小川(小美玉市)に稽医館(けいいかん)を開校したのを初めとして、安政4年(1857)開校の馬頭郷校まで15校が開設されました。歴代藩主の中でもとりわけ9代藩主 斉昭は教育に力を注ぎ、藩士とその師弟の教育機関として藩校「弘道館」を、領民の教育機関として郷校を積極的に設立しました。

 時雍館は6番目の郷校として弘化元年(1844)に建設され、斉昭の失脚によって開校が遅れましたが、嘉永3年(1850)には教育活動を開始しました。市内に設けられたもうひとつの郷校 大宮郷校の開校はその6年後です。

 郷校の教育は水戸学の強い影響を受けたもので、時雍館の館主となる人物もその先鋭的なリーダーという面を持っていました。4代目の時雍館の館主であったといわれている田中愿蔵(たなかげんぞう)は、幕末水戸藩内の抗争における激派として有名です。時雍館もこの抗争に巻き込まれて元治元年(1864)に焼失し、多くの資料が失われました。

 その後、慶応3年(1867)に最後の水戸藩主 徳川昭武によって再興され、同所に郡務局を置いて領内北部を管轄させました。しかしこれも4年後の明治4年の廃藩置県による水戸藩の消滅で廃止され、時雍館は20年余の歴史に幕を下ろしました。

 

(広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き 8」平成17年12月号より)