大宮地域の旧市街地、現在の大宮小学校(部垂城跡)の場所にあった、水戸藩の15の郷校のうちのひとつ。
”郷校”とは、藩士とその子弟の教育機関として設けられた藩校に対し、庶民教育のために水戸藩が設置した教育機関で、早いものは文化年間(1804~17)に、ほとんどのものは天保(1830)以降に建設されました。
大宮郷校は安政2年(1855)10月に工事を開始し、翌年8月に開館しました。郷校の通学区域は当初、大宮・下村田・下岩瀬・上岩瀬・根本・泉・宇留野・富岡・小倉・塩原・辰之口・小貫・照山・西ノ内・舟生・山方・野上・岩崎・上大賀・小祝・鷹巣・家和楽(常陸大宮市)、瓜連・鹿島・下大賀(那珂市)、新地・花房・上利員・中利員(常陸太田市)の29か村でしたが、後に下利員・箕・竹合(常陸太田市)、上村田・石沢・若林(常陸大宮市)が加わったようです。
郷校の管理者である郷校守(館主)には、根本村の神官であった渡辺主計(わたなべ かずえ)が任命され、それまで甲神社の神官であった吉野兵部と入れ替わって甲神社の神官も兼ねることとなりました。
会日(開校日)は1ヶ月に1回で、大宮郷校は通常毎月17日でしたが、正月は28日、4月と7月は8日となっていました。ただしこれは原則で、休会や月に2回開かれた場合もありました。大宮郷校が機能した期間は、安政3年8月から、藩内抗争によって閉館する元治元年(1864)までの約8年間ですが、藩の政情不安から断続的な教育活動しかできなかったと思われます。
教授陣は、藩から派遣された関鉄之介・中村任蔵・滝川謙蔵・医師の富田玄東、地元では静神社神官 斎藤監物・鷹巣神社神官 豊田重章・郷校守 渡辺主計らです。教育対象者は、郷士・神官・郷医・村役人(庄屋・組頭)らとその子弟、一般農民ですが、実際にどのくらいの人数が学んだのかは史料が残っておらず不明です。
大宮郷校の教授陣に関鉄之介や斎藤監物ら桜田門外の変の実行者が加わっているように、水戸藩の郷校教育は幕末の尊攘運動に少なからぬ影響を与え、元治甲子の変で拠点ともなったので、多くが御前山地域野口の時雍館のように焼失しましたが、大宮郷校は残り、明治3年に再興されたものの、明治5年の学制発布により役目を終えて廃止されました。
常陸大宮市歴史民俗資料館大宮館では、大宮郷校で用いられていた教科書の一部を保管し、常設展示で見学することができます。
(参考/『大宮町史』昭和52)