水戸藩は、領内農村部の村々をいくつかの郡(こおり ときに組、扱いとも)に分けて支配しましたが、時代によって度々改変が行なわれました。八田組は、寛政11年(1799)から始まった郡政改革の中で新たに設けられた組のひとつで、役所である陣屋が大宮市域八田に設置されました。
八田組が置かれる前の常陸大宮市域は、大宮地域上野(かみの)地区・大宮地区・世喜地区および小祝を除いた大賀地区が太田郡に属し、その他の地域はすべて武茂郡に属していました。天明の大飢饉の影響などにより農村の疲弊はその極みに達しており、農村の実態に即した農政推進を目指して、寛政11年に藩は郡制度改革に着手します。まず同じ郷村に対する郡奉行と代官の二元支配を廃止して郡奉行に一元化するとともに、郡奉行の城下での執務を任地在勤制に改めました。また、4つであった郡を細分化して11とし、寛政12年には太田郡と武茂郡の一部を割いて八田組を新設、享和2年(1802)には武茂郡を常葉組と鷲子組に二分するなどして、4つであった郡を、11の組に細分化し、城下に近い常葉組と浜田組は従来どおり城下で執務し、他の9組にそれぞれ陣屋が置かれました。
八田に陣屋が設置され、最初に配属された奉行は、農政学者 高野昌碩(たかの しょうせき)です。高野は太田村の郷医で、農村の実情を観察し、その復興策を度々藩に上申して認められ、藩士に取り立てられた人物です。高野は郡奉行が各地で直接政務を執る方式を立案し、藩に建議したといわれています。八田はその高野自身が最初に治めた地でした。
彼の記録によれば、八田陣屋は、陣屋の機能が始まる前年の享和元年(1801)に完成、屋根は草葺きで、勝手と6畳間と納戸のみの質素なものだったことがわかります。高野の後には、白石又衛門意隆(おきたか)、石川儀兵衛清秋、友部正介好正、井坂久左衛門義隆、藤田虎之介彪(たけし 東湖)が次々と奉行となって在勤し、天保初年に郡制が再編されるまで、八田陣屋は30年間機能しました。ちなみに、八田組最後の奉行として赴任した藤田東湖は当時25才だったそうです。
現在、八田陣屋があった場所はグリーンヒルズ大宮・御陣屋という住宅地になっており、北東隅にある公園近くに、八田郡奉行所跡を示す記念碑が建っています。
(参考/広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き 47」平成21年3月)