江戸 新五郎

えど しんごろう

 江戸新五郎通憲(みちのり)は、美和地域鷲子(とりのこ)にあった山城 河内館(こうとだて)の最後の城主 江戸通家(えど みちいえ)の子で、善徳寺の近くに市指定史跡になっている墓があります。

 鷲子の江戸氏は、応永年間の末(1420頃)に大掾氏から水戸城を奪った江戸通房(みちふさ)の2男 通治(みちはる)に始まります。鳥子(とりのこ 元禄16年から”鷲子”と表記)河内館を本拠として鳥子村周辺を支配しました。江戸氏本家は佐竹氏と敵対関係にありましたが、鳥子江戸氏は早くから佐竹氏に仕えていました。

 初代河内城主通治以来、180年にわたってこの地を治めてきた江戸氏も、佐竹氏の秋田移封に従って常陸を去ります。慶長7年(1603)、通家のときでした。父と共に秋田へ移住した新五郎でしたが、体調を崩したため、鳥子に土着したかつての家臣を頼って、ひとり住み慣れた鳥子に帰ってきました。新五郎を養ったのは、一族でもある小林重広(しげひろ)・広義(ひろよし)父子で、新五郎が寛永19年(1642)に没すると、小林家の土地である現在地に葬りました。その地は「殿畠(とのばた)」と呼ばれています。

 その後、広義より4代あとの広高が新五郎通憲の墓碑を建てようとしますが果たせず、その曾孫の広安が水戸藩の儒官で医師の村田隆民(むらた りゅうみん)と共に、文化6年(1809)に墓碑を建立しました。碑文を撰した村田隆民は、藩医として江戸詰めの表医師にまでなった人物ですが、当時、水戸藩の郡制改革によって新設された鷲子組の陣屋に勤務していました。

 今も地域の方が手入れしている江戸新五郎の墓碑の前には、新五郎の墓を守るように6つの土盛りがあり、江戸氏旧臣の墓と伝えられています。

(広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き 50」平成22年11月より)

河内館の登り口
河内館の登り口
河内館縄張図 余湖浩一「図説茨城の城郭」より転載
河内館縄張図 余湖浩一「図説茨城の城郭」より転載